夢の海に潜れよ

奇想メモ

アーバンマリアの午後

キャンドル作家の真帆さんと近代美術館でやっていた『トルコ至宝展 チューリップの宮殿 トプカプの美』に行った。

 

美しいマリア像を多数手がけられる真帆さんは、西洋の歴史も詳しくて、解説してもらいながら、ひそひそと話しながら会場を歩いた。
ヘタな音声ガイドより、めっちゃ勉強になったわ。


急にお誘いして、時間がなかったので、第1会場しか見られなかった。できれば、終わるまでにもっかいいこう。

 

その後、二人で、カフェのテラス席で、過激な話(笑)ばかりしていた。

マグダラのマリアや卑弥呼のことなど、二人でとめどなく話し込む。内容は、マジでやばすぎて書けない。( ̄▽ ̄)
こういう刺激強めな話が、まんま通じ合える人って、ほんまに嬉しいし、面白すぎ。
ほんまのところは、男性には話せへん。

 

まほさんには、あるキャンドル作品をお願いしているんだけど、この前、書いたように、夏至前の1週間くらい、めちゃくちゃローだったので、その時の私を受信して進んでいたらいややなぁと思って聞いた。

「大丈夫。なんか『今はちがう』ってのが、軽〜く来てたから、取り掛かるのは来週以降と思ってる」と。

おお、さすが。助かった。

心配しなくても、一番いいとき、一番いいように、進むんやろなぁ。

 

ほんま、すごい作品なのよ。ほんまに。


湖底に沈んだお神輿のような作品。(謎)

弁天さんを感じるという、不思議な作品。


「彼女」が部屋にくるために、今、部屋を設えているようなものだから。

 

それと、タイムリーなことに、スマッジ(乾燥させたホワイトセージ)をいただけた。

お電話した時に、唐突に「スマッジ、いる?」と真帆さん。


ちょうど探していた時だったので、驚いて「ほしいほしい」と即答した。

しかも、これ、まほさんが育てたホワイトセージなのよ。京都産。
湿度の多い京都では、セージは育ちにくいハーブらしいけど、さすがの真帆さん。

 

身土不二。本来、その土地でできたものがいちばん。

 

「女」がきた夏至前の、あのキツい時期、実は、お祓いに、スマッジを焚こうと、家中を探したけれど、紛失したようで見つからなかったってことがあった。

 

めっちゃしんどかった話を真帆さんに聞いてもらっていたら、まほさんは「そのときはスマッジを焚かなくて良かったんちゃう?霊かて、そのままの自分をわかってもらいたがっているのに、その状態で『祓って』しまうのは、なんか違うって思うわ」と。

確かに。

 

そのときスマッジが見つからなくて、よかった。
だれだって、言いたいことあるときに、一方的に話を切られたら、それだけで不愉快やもんね。

 

そして、一波乱あり、大波が引き、たぶん、今が、祓いどき

祓いどきに祓ってあげることは、成仏(一種の成就)になるのだろうと思う。

 

先ほど部屋で、真帆さん作のスマッジを焚いて、茎の部分をロウソクの芯代わりにロウのなかに立てたら、めっちゃ勢いよく炎が出た。

 

だから、もともと灯していたポットの中のろうそくと取り替えようとしたら、お皿の上に、タラタラ〜とロウが流れ出たんやけど、その形が、なんだか赤子を抱いているマリア様っぽい

( ↑ 加工なしよ、マジで) 

真帆さんからいただいたスマッジを立てたロウだと思えば、可笑しなことではないような気がする。

 

それに、下のお皿の柄と合わせてみると……ぶどうが、なんとなくツノに見えなくもないので、別の見方をすると、ディオニソスっぽい。ぶどうなので、ぶどう酒の神でもあるディオニュソスをますます彷彿とさせるキャンドルのロウ。

 

さらに、トート版の0番、愚者である[fool-child]はディオニソスと同一視されている面もあって………

 

など……と、うっかり垂れてしまったロウに、さまざまな連想をさせてもらって楽しい午後。

 

良かった。彼女。成仏できたね。
(それは、もちろん、私の一部でもある)

 

おかげで、親分が、今まで以上に男前に見える本日である。
ちょっとくらいお腹が出てこようが、ね。( ̄▽ ̄)
加齢臭も愛おしい?!笑

 

 

神話が好き

 私は、日本の神話も世界の神話も好きだ。特に好きになったのは二十歳を越えてからで、夢見探求の中で、ぐいぐいと引きつけられていった。

 

 夢見というのは、摩訶不思議な心理作用なので、夢分析を行うなかで、心理学者のユングを知り、さらに、神話学のジョセフ・キャンベルにハマり、しだいに、夢の分析と神話は、切っても切れないものとわかってくる。(三十年くらい前に、NHKラジオでやっていた、ジョセフ・キャンベルの講演会の日本語訳音源は、今も宝物)

 

 神話に登場する神々というのは、森羅万象を産む。しかし、ちょっとしたことで怒るし、気に入らなければ殺す。これは、万物の成立や生命を比喩として擬人化擬神化しているだけなので、人間世界の倫理観やルールとは、もちろん別次元の解釈をする必要がある。

 

 また、神話の信ぴょう性自体も、あまり当てにはならない。神話は、歴史の為政者によって改ざんされるものだから。太古の原型のまま残っていることはまずないだろう。

 

 そんな、「当てにはならない」神話に、なぜハマるかといえば、どんなに人間たち(=権力者)が、都合よく物語を変えたとしても、変えられないものを感じるから。

 

 太古より連綿と流れているもの、受け継がれているもの、取り巻いているもの──私たちが、そうとも思わず影響を受けてしまっているものが神話の中にある。(そして、それが、夢にも現れる。意識していなくても)

 

 時の権力者が、神話を改ざんするにあたり、どのように物語に手を加えようとするかは、簡単に想像できる。

 

 おそらく、自分(たち)のルーツが、その国や地域の太古の「神」であったとの流れを誇張するか、あるいは新しく作ろうとするか、または、反対勢力の系統の神の名前を消すか変えるか、そんなところではないだろうか?

 

 人間の知能のやることは、せいぜい「そんなもの」だろう。「そんなもの」は、いずれの世かで、再び覆される。

 

 神話は、実のところ、「そんなもの」など伝えようとはしていない。神とは、「人知を超えたもの」。人間側の浅知恵など意に介さない。

 

さて私は、神話とは、自分の「身体」を使って「体感」しうるものだと感じている。

 また、その物語性は、人間一人一人の「生」の中で、再現されていることを実感することもよくある。

 

 まあ、私の場合は、体質的に?というか、夢分析ばかりしているような変態なので、特に、神話的な物語性に感受しやすいのだろうけれど、特にそういう趣味のない人でも、「探求」が可能なのが、神話の面白さ。

 

個人的には、これこそが真骨頂だと信じている。

 

 このブログの中では、そんな「超個人的な」神話探求を、たまには書いてみたいと思っている。

 

 

勝手に愛情深い

ここ2回の記事で、いろいろとたいへんだった件を書いたが、その後、どういうわけか、ずっと弁天さんのご真言を唱え続けている。

 

今朝の瞑想の終わり頃、ふと、「どこまでも優しくあっていい。傷つけられることはない」というフィーリングを受け取る。

 

私はこの頃、少しずつ、13の神秘体験の後、5年ほど味わったなんとも言えないアホで優しい境地を取り戻しつつあることを実感していて、そのようなところで響いてきた言葉。

 

 もっと愛情深くていいのですよ、傷つけられることはないのだから。

 

傷つくことが怖くて、私は、本来、表現できるはずの「愛」を、押しとどめていたことに気づく。

 

少し前、知人から、冷たく感じる態度を取られて、今までなら、そのことから相手のことを嫌いになったり、斜に構えたりしていたものだけれど、考えてみれば、私は、もともとその人のことを悪い人だと思ったことはなくて、ただ「合わない人」と相手から思われているだけのことだった。

 

なんと「私は、嫌っていない!」

そう、私は嫌っていなかったの。笑

私が嫌わなかったら、何の問題もないではないか!

実は、相手が私を嫌うことは、私が相手を嫌うことと、何の関わりもない。

 

まあ、ただ、相手は、私に対して、よく思っていないのは伝わっているわけだから、そこはそっとしておこう…とは思う。こういうことこそ、単に、思いやりだと感じる。

私は、何も、傷つかないではないか。

嫌っているのは、相手さんなんだから、それは、ある意味、ざんねんなことではあるけれど、どうしようもないこと。

そこは、合わなくてごめんね〜、と軽く言える。笑
どっちが良いとか悪いって話じゃなくて、合う合わないという、あるある次元なんだから。

私が嫌っていないのだから、何の問題もないんですよね。いや、ほんま。

 

うんうん。私は、これでいいのです。

 

アホで、勝手に愛情深くて。

私が、そうしたいからそうしてる。
それだけ。

 

私は、はっとした。これは「#0 たろう」のメッセージに同じ。

「#0 たろう」は西洋タロットの「愚者」
愚者は愚か者と書くけれど、京都タロットのたろうも、まさに、こういう在り方の原点を見せてくれている。

 

無垢で愚直で……要するに、「良い意味で」アホ。

 

弁天さんのご真言唱えている時って、たぶん「あなたにお任せしました」と言っているようなものやと思うんよ。

そして、弁天さんからの答えは、ただ「わかりました」ってこと。

弁天さんからすれば、その後に、こちらがあれこれ悩んでたとしたら「なんで、悩んでんねん?任せたんやろ?」って言いたいんちゃうやろか。

 任せたんでしょう?
 傷つくことはないのだから、そのまま愛情深くいてください。

 

いや〜、世界をどこまでも愛してええねんで。
すごい、解放されへん?笑

 

弁天さんは、京都タロットで言えば、「#1 いちひめ」に相当すると思うので、
こうして、先の「#0 たろう」さんと合わせて「0+1」。ここから物語が始まるのだと思える。
どうなるか見当もつかない、無限の物語
これは、たろうさんが「良い意味でアホ」であるからとも言える。

 

「勝手に愛情深い」私たちの本質は、傷つくことを恐れなければ(=傷つくことはないから)、好きなだけ、世界を愛することができる。

 

…ということは、逆に、だれかを、嫌っても、苦手でもいいってこと。
その時は、思いっきり嫌ったらいいって思えた。

人が、自分を嫌ってもいいというのは、
自分の同じ面も、まったくもって許せるのだ。

 

 

なぜ男性の方が力が強いのか?

先の、「霊が通り過ぎる」現象。

喉元過ぎれば…で、一皮剥けた感のあるこの頃。

あれは、やはり、ウミ出し、だったのか?

ウミ出しは、産み出し。

 

   †

 

 

遡ること数週間前、個人的に、重要な気づきがあった。

私にとって、活動の土台の中に染み込んでいるほどの重要なことで、これをシェアしようと思うが、いつものように、ためらいを感じる部分もある。

 

(ちなみに、私は、重要なことを話す際、躊躇することが多い。

 理由としてふたつ。

 

 一つは、重要なこと故、「わかってもらいたい」と力むから。笑

 もう一つは、現代の社会では、タブーに触れることでもあるから。

 いや、タブーというより、誤解されやすいこと だから。)

 

 

私は、以前から、男女の性差について、めちゃめちゃ疑問に思っていることがあった。

それは、あまりに当たり前すぎて、すっかり受け入れていること。

 

たとえば、

「宇宙の終わりはどこ?時間のはじめはいつ?」の本質的な設問ように。

 

上記は、考えれば考えるほどわからなくなる、人類の命題「其の1」だと思うが、「其の2」に値すべきことが、男女の性差問題であった。

(ちなみに「其の1」については、個人的には決着を着けているが、この話はまた)

 

「なぜ、男性の方が、圧倒的に力が強いのだろう?」

 

これは、ほぼ異論は出ないだろうと思われる根源的な疑問。

どうしたって女は、男性には、肉体的な力ではかなわないのだ。

 

また、

学力などの能力も、男性の方が優れている面も大きい。
(こちらは、異論のある人も多いと思われる。(^_^;))

 

いや、私も、個人的には、女性も学力等、
「優秀な人もたくさんいる」とは、もちろん思っているが、

ポテンシャルでいうなら、男性の方が突出していると感じる。

 

さらに、

私は、男性の方が、「根が優しい」と感じる

 

女性も、もちろん、根は優しい。( ̄▽ ̄)

 

だから、男性の方が優しいなどというのは、語弊がありますね。

 

優しさの種類が違う というふうに言い直そう。笑

 

(こう書いてしまうと、異論を超えて、怒りを感じる女性もいると思うけれど、
最後まで読んでいただくと、納得してもらえると思う。

いや、納得どころか、本質を発見して、歓びを味わう女性も出てくるかも?)

 

 

閑話休題。

 
優しさの種類というのは、男性の方が、

「世のため、人のため」意識が強い ように思える。

 

その根っこにあるものが、

 

お母ちゃんの笑顔が見たいために、勉強をがんばったり、
駆けっこで一等賞を取ろうとする少年を胸の中に宿しているから、

と、言えるのではないか。

 

女の子も、お母ちゃんの笑顔が見たくて頑張る面もあるが、
男の子の方が、その気持ちが、わかりやすく出てるんじゃないだろうか。

 

つまり、

男性は、他者の評価(人のため)が、行動の動機になりやすいんじゃなかろうか?

 

女性も、まあ、その面はあるけれど、

女性の場合、他者の評価が、直接的な動機には、少しなりにくい。

 

こうすれば「人の役に立てる」とか「評価が高くなる」と告げられて、

ありがたいことだと感じたとしても、動機としては弱く、

そのことに、男性ほど一途に向かえない面が、なぜか、ある気がする。

 

ならば、女性の行動規範とはなにか?

 

を、ここでは考察したいとおもう。

 

女性特有のこと……それは子供を宿す肉体、つまり子宮を持っていること。

 

子宮を持つことで、年頃になれば、少女は生理を迎え、

それによって、気分や感情が左右される。

 

なぜか…?

 

女性は、自らの肉体と感情に正直にならなければ、
妊娠、そして出産時のトラブルなど、リスクが高いから。

 

妊娠をする時と、妊娠を避ける時──、

女性は、「自分」を、「知る」必要がある。

 

妊娠と出産は、古代には、今よりもっと危険を伴うものであったろうし、

女性は、それだけに、肉体──子宮と感情、思考を調和させている必要があった

 

他者の評価、人のため……なんて言ってられないのだ。

他者からの評価などは、自分の感覚的な研磨の大切さには及びもつかない。

 

この観点で見れば、自然にわかってくること。

 

男性が、圧倒的に「体力と、知的に処理する能力」に長けているように、

女性は、圧倒的に「直感力」に長けるのだ。

本来、そんなふうに、自然は手配した ということが感じられてくる。

 

女は、まずは、自らの感覚を研ぎ澄ますこと。

 

そして、この感覚は、自然現象とも、本来的には、共振共鳴している。

 

女性の肉体は、自然の受信機としての子宮を持つと考えると、

ほんとうは、宇宙とのフラクタルな関係にあるだろうと思える。

 

自然の現し身。映し身。

 

つまり地上の調和と、そもそも共鳴しているので、

女性は、自分の感覚こそマスターをして、宇宙を表現することこそ、

地上の在り方として、本当の正解なのだと、思えるのだ。

(だから、京都タロットは、ええツールなんじゃよ〜…( ̄▽ ̄)v)

 

 

明治、そして大正期に、‘らいてふ’ さんが、拳を上げて叫んだ言葉

「元始、女性は太陽であった」 を、

この令和では、拳を下ろして、淡々と話したい、と私は思う。

 
卑弥呼が執政していた時代、男女の性差は、現在とは、全く違った活かし方がされていたように思う。

 

自然との調和を重んじるなら、
地上の調和を受信できる能力の高い女性は、まつりごとに向いていただろうし、

自然との調和を重んじるなら、体力的に強靭であり、かつ、優しい男性は、
その調和の実現に尽力する役割があったと思われる。

 

そうやって、男女のバランスは、地上で絶妙に測られることは可能で、

本来は、そこには優劣は、ありえないはず。

 

男性社会の現在は、目に見えているものがすべてだから、

目に見えて力があり、体力があり、知的な能力のポテンシャルが高い男性が、

社会を仕切るべしになってしまうし、

力の面で劣っている女性は、その隷属的立場にならざるを得ない状況ができてしまう。

 

しかし、もし、女性の直感こそがすべてという

女性優位の社会があったとするなら、

直感を受信できる女こそ王者で、その能力では下回ってしまう男性は、

隷属的な立場になってしまうことはありえるだろうとも思える。

 

力が強く、お母ちゃん&嫁さん&女性 を喜ばせたいという、

自分が受信した直感よりむしろ、他者からの評価を重要視する、

男性の優しい性質をも、調和の上では活かせるかもしれない。

 

男性は、内に少年を宿し、女性は、内に宇宙を抱える。

 

幼い少年は、母から天のエネルギーを得ようと、かーちゃんに甘える=天得る(あま・える)と聞いたことがある。

 

母親に大いなる宇宙を見るとは、実は男性は、よりロマンチストということにもなるだろうし、男性の優しさの根っこが見える気がする。

 

一方、「そもそも」自分の中に宇宙を包括する女は、深いところで、男性を必要としない面があるのではないだろうか。

 

肉体的には、男性よりずっと弱いはずの女が、かくも強く、図太いのかと言えば、「そもそも」の理由が、お腹の「宮」にあるのではないだろうか。

 

はるかはるか遠い昔、女が「みことのり」を受信し、主導して「まつりごと」を行い、

男は、ひたすら支えている奴隷時代があったのかもしれない…などと妄想するのは、

思いあがりかもしれないけれど、ちょっと面白い。(^ ^)

 

しかし、そんな男女逆転社会であっても、互いに敬意がないと、パートナーシップは成立し得ないし、豊かな社会にはならないだろう。

 

さて、改めて、だけど、

これは、もちろん、個人差があることで、一概に言い切れない。

だから、ここは「傾向として、ある」というふうに、読んでいただきたく思う。

 

男性でも、女性以上に直感が鋭い人はいるし、
女性でも、他者評価が大きな原動力の人もいるだろうし、東大王もいる。笑

 

いずれにせよ、どちらかの性に偏重することなく、
互いに活かし合える関係は、模索していかなければと思う。

(ただし、あまりにも男性性偏重の時代が長かったので、その揺り戻し的に、
 今後、女性性が強くアピールされることになるだろうことは想像できるし、
 それは、バランスの意味でも、必要な過程であると思う)

 

そんなわけで、最初の話、

このような気づきが起こったことで、

私は、パートナーである夫に対して、強い憤りを感じるようになってしまい、

もっと、自分たち女性は、男性にかしづかれるべきではないか?

…のようなキテレツな気持ちが出てきて(笑)

そこに、かつての「女」が取り憑くような隙ができたのだと思う。

 

女性性の大反乱。

 

今後、多くの女性に起こりうる気持ちの移ろいであると、予言しておこう。( ̄▽ ̄)

でも、大丈夫。

 

これは、あくまでも、過程。

女性はもちろん、男性にとっても、もっと豊かに、もっと幸せになれる前兆でもあるという確信がある。

 

まずは、女自身が、自らの中のウミ出しをしとかないと、
次なる調和や進化はないのだから。

霊も自然治癒、そして再生

 

もはや、どこから、どう書いていいかわからん。(^_^;)

 

B面ブログに書くつもりだったが、一応、あちらは準オフィシャルなので、いったんはこっちに書くことにした。

 

家の書斎を奇想庵として本格的に稼働させようと思って、今まで放置していた書類関係を、ジャンル別に整頓していた。

30年近く前のものもあって、懐かしく眺めつつも、10年に一度も見ることもないだろうと思われるものは、思い切って捨てることにした。

 

ファイリングしていたとは言え、黄ばんだ書類は埃っぽかった。

ひょっとすると、マスクをしていれば、何か変わったのかもしれない?

 

埃を吸って、咳込む。

作業を続けるうち、喉のイガイガっぽい感じが止まらなくなり、咳が出続けた。

しばらくして、わたしは、なんとなく不機嫌になっていることに気づく。

 

 ???

 

何かを吸った!と思った。

 

案の定というか、それから数日の間、夫に対して、抑えていた怒りが噴出してきていた。

沸騰というか、噴火というべきか。(笑)

 

何かを吸った…という自覚もあるし、そもそも思考や感情というのは「自分のもの」ではないこともわかっているので、そこそこの客観視も自然にできていたはずだったが、今回のは、やたらキツく感じて、気がつけば、「怒り」と「自分」を同一化してしまっている。

 

毎晩のように、夫に文句をいっていた気がする一週間。( ̄▽ ̄)

 

だいたい議題はいっしょ。

「愛されている気がしない。もっと露骨に愛を表現してくれ」という私(←タチ悪い)に、

「こんなにやっているのに、どうして気づけない?これ以上、求めてくれるな」という夫。

 

顕著にわかったのが、朝、夫の出勤時、「いってらっしゃい」という私に目を合わせなかっただけで、イライラする自分を感じたこと。

心の奥で「愛してくれ、愛してくれ」と、激しく叫んでいる感情を感じながら、「女だ」と思った。

 

あの埃の中に、昔、成就されなかった「女」がいた。

報われなくて泣いている「女」がいた。

 

でも、それはそれだけのせいではない。

よくラジオの周波数にたとえられるように、こちら側に、同じ波長が出ていなければ、受信することは絶対ないのだから。

それが微弱なものであったとしても、私の中に、同様の感情がくすぶっていたからこそ、異様な怒りと渇望に襲われていたのだね。

 

 

私は、(多層な意味で)私でもある、この「女」を癒したいと思った。

ただ、一人では難しい気がして、占星術師の友人の、お抱えの霊媒師の方を紹介してもらうことにした。

 

「霊媒師」という方と接するのははじめてだったので、お話しするまでは、個人的イメージで「怖い、厳しい人だったらどうしよう?」と思っていたのだったが、果たして、M先生(霊媒師さん)の大らかで優しいお人柄は、一声聞くだけですぐに感じることができて、安心してすべてをお話しできた。

 

結論からお話しすると、私は、いたく感動してしまった。

「何にもないわけではないが、何にもない人などいないし、だれだって『霊が通り過ぎる』ことはあるよ」とM先生。

私は、この一言で、大事なことに気付かされ、心から安心した。

 

お分かりだろうか?

 

つまり、風邪を引くのと同じようなものなのだと思った。

生きていれば、だれでも風邪を「もらう」ことはあるように、生きていれば、だれでも霊を「もらう」こともある。風邪が自然治癒するように、この程度のものは、自然治癒できるということ。ぜんぜん「たいそうなこと」ではないのだ。

 

風邪と同じように浄化作用なんだから、そこに抗わずとも、見て味わって、浄化させてもらったら、全然違った在り方の「私」が現れる。

もっと大きな視野で言えば、むしろ、そのために、新たな自分の発見のために、その現象は現れる。

 

単に、前向きに定義し直すことができることを発見。私が「決定する」ことができる。私が決めたようになっていくこと、、本質的に自分が創造主であったと再発見するに至った。

 

おそらく、その「女」と共に、何らかのウミを出したのではないだろうか。

奥に、何かを持ったままで、その次には進めないので、そのウミとなっているものが「女」を引き寄せたと考えられないだろうか?

むろん、その次に進む必要などないわけだが、私は、心の奥で「進みたい、進化したい」と思っているので、その「私」が引き起こしたことなのだと定義できるのではないだろうか。

 

次に進みたい、腹のウミを出したいという私の「本音」が導いた、一種の荒療治。笑

 

まあ、それはそれとして、翡翠のペンダントは、一種の魔除けになるということを教えていただいた。(あ、もちろん、それを販売されているとかいうシステムではないよ…笑。単に情報)


あと「玄関の樹が守ろうとしてくれているので、大事にしてあげてね」と。

 

いや、めっちゃ難易度の低い対処法やん。笑

 

私は個人的には、依存心を起こさせるものは、時代に逆行していると考えていて、霊媒師さんという在り方自体が、そういうものだとちょっと斜に見ているところがあったけれど、いや、人によるもんですね。

しっかりとした軸のブレない人というのは、霊媒師さんであってもなくても、そんなところを刺激しないし、むしろ、必要なら突き放してくれるという大きさがある。

まあ、もちろん、中には「日常生活ができないくらいの人はいる」らしいけれど。

 

そんなわけで、「女」からもゆるっと脱却。

次々に、新しい祈りと、新しい在り方が生まれる。

夫には申し訳ないけど、こんな変人をパートナーに選んでしまった責任として、これからも付き合っていただこうと思う。

ええことばかりではなく、こういうことも含めて、パートナーシップといえるのだろうから。

 

好きなものばかりの休日

土曜日

 ロボット教室のあと、夫がボンを連れて、実家一泊帰省。一、二ヶ月に1度くらいの頻度で帰省してくれる。義母は喜び、私も喜ぶ。息抜きの一人の夜。ええ塩梅でやってくる。笑

 

 現在、屋号を変えて心機一転というところで、新しい手帳が欲しくなり、壽ビルのほぼ日のショップへ。壽ビルはノスタルジックな洋館。西洋への憧憬感に溢れた昭和初期の洋館。レトロビルは好きな建築物の一つであるよ。

 帰り、たまには一人で外食しようと考えていたが、ステーキ用のお肉を買って、家で焼く。赤ワインと一緒にいただく。

 

日曜日

 娘と朝の5時半までだらだらと話して、正午まで眠る。

 

 13時半からタロット箱の打ち合わせで、近所のノート屋さんへ。洋書風のものをリクエストして、試作を出してもらった。重厚感もあって素敵な仕上がりだと思ったけれど、オーナーさん曰く、強度的にイマイチで、使っているうちに貼り付けた紙が剥がれてきやすく、デザインを変えたいとのこと。

 

 実際、タロット愛好家はヘビーユーザーが多くて、毎日、何度も繰り返し使うので、やっぱり強度は大切。(私自身も、タロットの紙箱のフタはほとんど破れてしまった)。オーナーのご指摘に即、納得したワタクシ、菓子箱仕様の「ふつう」の箱に変更。窮屈だと扱い難いということで、小指一つ入るくらいの、ちょっとガサッと感のある大きめの箱を注文した。ただ、奇想庵謹製を名乗るからには、ちょっとこだわりを入れたいところ。

 

 夕方、夫とボンが、知り合いからカブトムシの番いを2組譲ってもらって帰ってきた。

 

 焼肉が食べたいらしく、牛、豚、鶏のお肉を買ってきた。昨日の残りの赤ワインと一緒にいただく。

 

 娘が自室で騒いでいるので、何かと思えば、初メルカリして、ものの5分で売れたらしい。アニメのイベントの時、もらったものらしい。

 

新しいパートナーシップ、男女性差

部屋の書類整頓は、ほぼ終わった。

とてもやりやすくなったはず……だが、その途中で、古い書類のほこりを吸って、咳が止まらなくなった。

 

でも、この咳は単なる「咳」ではない。

古い秩序を脱却するにあたっての作用。

えらい前向きな言い方をしたけれど、ほんとうは、めっちゃキツい。

 

怒り狂って、さらに哀しんでいる「女」が、取り憑いているのが、自分でもわかる。

夫の顔色をうかがっている自分に気がつく、そして腹を立てている。

 

それは、過去生の私でもあり、同じような理不尽を味わっている女たちの気持ちと共振している。

 

私は、かつての、古い時代の、巫女であったことに気づき、

おそらくは、その女性優位時代に、なにかしらの理不尽を、男性に強いたことがあるような気がする。

 

そして、現在、本来ならスムーズであるはずの巫女のあり方に、私は歯止めをかけるように自ら仕組んでいるのだとわかる。キツイが、俯瞰で見れば、地上ゲームといえるのだろう。

 

よくよく冷静に考えると、「この程度の」価値観の違いなど、気にしない人なら気にしないだろうし、気にする必要はない。

 

私は、心の奥で、本当のところ、何を望んでいるのか、ここで洗い出してみたい。

 

私は、彼(パートナー)に、新しい(実際は復古)男女の在り方の価値を理解して欲しいと思っている。

そして、私の巫女としての本当の価値を認めて欲しいと思っている。

 

…と、書きながら、少しまとまってきた。気がついてきた。

 

私の深奥では、別の筋書きを用意しているようだ。

表層意識では、理解できない男性と、本質は巫女であるところの女という、ありふれた夫婦が、変容していくというシナリオ。

 

あたりまえだが、最初から理解を求めるのではなく、自分が、自ら、その生き方、在り方をこの人生で実践して見せて、やっと男は、本質的な性差とその活かし方に気がつくのだと思う。

 

だから、私は、もう甘ったれてはいられない。

この甘えの体質こそ、旧態の女像であって、そうしなければ愛されないと教育されてきた(してきた)古めかしい女の姿を表しているのだと思える。

 

貴郎(あなた)よ、そうしなければ愛せないのなら、わたしを愛さなくてもいい。

 

それでいい。

それでいいのではないか。

私よ、それくらいの強さを、毅然として持て。

 

愛さなくてもいい。愛されなくてもいい。

 

恐ろしい言葉だ。笑

 

でも、今の、この脱却期にある私には、ひたすらに、必要な言葉なのではないだろうか。

 

愛されなくてはいけないということこそ、呪いではないだろうか?

そうしなければ生きてはいられないと、連綿と語り継がれてしまった呪文なのではないだろうか。

 

じゃあ、私は、彼を愛していることは?

愛してしまった…それでいいではないか。ちがうかな。笑

 

私は、彼を、愛してしまった。この人生で、彼に、心を奪われてしまった、それでいいではないか。

 

私は、彼を、愛してしまった。以上、マル。

 

 

愛されているという潜在的な自信

 朝方の夢。心を鏡に映したような雰囲気の女性とハグをしていて、彼女が自分のほっぺたに触れながら、すごく調子がいい、などと言っている。リアルな感じの夢見で、起きがけ、金縛りになりそうなくらい。

 

 起きてから、あの女性は、私の分身ではなかったかと思えた。頬に触れたのは、ちょうど、私が現在、基礎化粧品を新しいものに変えたところで、その使用感のこと。私の中の「彼女」と「私」を、ハグを通じて和解していることを知らせている。彼女は私。

 徹子の部屋にフランソワーズ・モレシャンさん夫妻が出ていた。私は、三十年前に、神戸のとある企業さんが主催していたモレシャンさんと行く京都旅というものに参加したことがあって、それを思い出していた。

 

 参加者十名ほどの濃ゆい旅で、座禅やら精進料理やら。伏見の酒蔵で利き酒をしたり、お煎茶を学んだり…で、「京都っぽい」旅をモレシャンさんとの濃密な時間とともに楽しませてもらった。

 

 夜は、ホテルの一室でモレシャンさんを囲んでの女子会的な談笑。当時、私は二十歳前の短大生で最年少。周りは、ちょっと年上のOLのお姉様や奥様ばかり。みなさん本当にオシャレでカッコよくて、モレシャンさんと対等に話のできる「大人の女」に見えた。

 

 お姉さんたちに、ただのキャピキャピの(←当時、こういう表現が流行っていたのよ)女子大生がどんな風に映っていたんだろう?いや、「ただのキャピキャピ」からしてみれば、そんなこと、どこ吹く風で、それで良かった。つまり、「それが」良かったんだろう。

 この頃は、社会経験ほぼゼロで、人の目を気にすることなど、まるでなかった。(必要なかった)。

 

 はっきり言ってしまうと、どこにいても「私は愛されている」という潜在的な自信があった。こんな風に言語化できるのは、その真逆の想いに囚われてしまうことが、その後に訪れたことによって意識できたのだけれど。あの頃くらいまで、私は無意識のうちに、(誰からも)愛されていると思い込んでいたのだねえ。

 

 なんという幸せなことなのかしらん。まあ、そこまでが「子供時代」と呼ぶのなら、私は、長いこと「子供」のままだったわけです。笑

 

 愛されていると信じていられたことは、実は、そんな単純なことでもないのだけれど。(失われた子供時代があって、それを十で取り戻して、十三の時に……って、この話は長くなるので割愛)

 

まあ、そんなノーテンキ真っ只中の私の、ちょっと背伸びをした旅。その顕現(象徴)としてのモレシャンさん。

 

 当時、彼女が執筆した本を一通り読んだ(今も書棚にある)。オシャレでシンプルで、(男女問題が)進んでいるパリという街と、そこに住む人々の美学を、かつてパリジェンヌだったモレシャンさんの書籍から感じ取っていた。

 

 細かいことは忘れてしまっているが、それらの本に、たびたび登場していたのが、ご主人の永瀧さん。今も仲良く過ごされているのが、徹子の部屋で垣間見れた。(確か、ご主人が十くらい年下なんですよね。仏大統領のマクロンさんも、夫人はずいぶん年上で、自らのパートナーに「若くて可愛い」を主に置かれてはいないってところが、オバサンとしては好感度が高い。笑)

 

 パートナシップのことを話すのは、徹子の部屋でモレシャンさんを見たことだけじゃあなくて、本日、27年目の結婚記念日。何か特別なことをするわけでもなく、特別なものをいただけたわけでもないけれど、未だに夢を語り合いつつ、老後のことも話し、つつがなくお酒を飲めるという「いつものこと」が、何よりもの幸せだと再認識して語る日なのであーる。いや、「幸せじゃ〜幸せじゃ〜」と、酔っ払って語っているのはワシだけで、夫はニンマリ笑っているだけ、なんだけどねえ。低刺激バンザイ! 笑

 

待ち合い室を作ろう

見積もり取りのために、新しい工務店さんは職人さんを連れてきた。お二人。

そのうちのお一人は、彼の奥様をむかーし、存じ上げている人だった。子供の予防接種の時に知りあったママさん。なんで覚えているかって、ボンの名前が一緒だったので。世間はせまいね。ほんまに。

めっちゃ元気で若く明るく可愛い方だったと記憶している。

 

営業さんも、職人さんたちも、印象は良く、こういうご縁があると、なにかやろなぁ~と思える。

なので、ここに決めるかなぁ~?見積もりみんとわからんけど。

 

     

 

今日は、少し、見込みと違うことが起こった。こう言う時は、昔なら、けっこう堪えたかもしれないけれど、今は真逆。

次は何がくるんやろ?とワクワク。笑

もう、ワクワクしかない。

 

人は、想い一つで、ぜんぜん変わる。

そして、想いは、実は、簡単に、捨てられる。こだわりなくやっていくことができる。

 

     

 

先日、東京でのリーディングが気持ちよくて面白すぎたので、これを京都でもやりたいと思って、事務所を改造すべく工務店さんにきてもらっている。

もはや、だれに遠慮をする必要があろうか。

私が使いたい部屋を作り、私がやりたいようにやる。なりたいようになる。それだけのこと。

 

これ!というイメージはある。

Taroが降りてきやすいような玄関とアトリエ。和洋折衷。

 

私は、このツールを、お客様がどんなふうに使えるかということを、日々考えてきたが、今日は、はっきりわかった。

これは、ただの占いのツールではない。そもそも、このことはわかってはいたが、それぞれの人が、自身の人生の「一部」として、すごく活かせる在り方(やり方)を発見したのだ。

これが、はっきりと言語化できなかったから、今まで、前に進まなかったのだと思う。

このまま、前に進む方が、今までならあかんかったとおもうけれど、もう、大丈夫だ。すごい、すごいですよ、Taro!

 

     

 

「今」は、これ!というものをやっていこう。

 

 

ラボのロボ

15:00

 参観日の代休中の長男。任天堂ラボのロボットを、朝からずっと手作りしている。長女は、昨夜の続きでバテて寝ている。

 歯医者のことをすっかり忘れていた。電話がかかってきて、明日に変更。ヒンシュク…。

17:20

 ボンのロボット作りは続いている。

 夕餉前に羊羹を食べた。

19:00

 夫が「ガツっと焼いた豚肉が食いとうなった」と生姜焼き用の豚肉の大入りパックを買って帰ってきた。半分を塩胡椒にレモン汁を振って、もう半分を生姜焼きにした。魚派で、肉がちょっと苦手なボンも、レタスに巻いてガツガツ食べてくれた。

23:20

 ずっと迷っていたことを、タロットに尋ねる。そういう時は、迷っていること自体が、そのまんま出てくる。答ではない。それは、答にたどり着くためのヒント。答は、自ら出さないと、結局は、迷いからは抜けられない。

4:30am

 今まで娘とダラダラおしゃべり。外は、すでに、ほの明るい。

書き出す

そう、わたしは、やりたいことがはっきりしているのに、「これをしてしまわなくては!」と心で強くストップを掛けている。

はやく、このストッパーを外したい。

これが終わってから…と思っているのは、まずは、水漏れ直し。

……からの、部屋のリフォーム。

 

そして、準備の本。

上級コースのテキスト作成。

 

水漏れ直しは、見積もりをお願いしてる。

うまくいけば、このまま行きたいな。

 

リフォームローンは私が組む。

 

部屋をリフォームして整えることは、すぐにでもできる。(ので、今、まさにやっているところ)

 

はやく、一階のアトリエをお客様にきていただくルームとして、機能させたい。

 

ここまですると、あとのこと、作成系のことが楽。

 

ああ、書き出して、やっとスッキリしてきたよ。

 

 

落としていく作業

 

これから、変なことばかりを書くかもしれないけれど、先に言っておこう。

 

これでも、正気。いや、ほんと。

 

もう、それを書いていくしかないではないか。うそをつきたくない。

 

    

 

無理に、そうあろう…とするものがないって、なんという楽なことなんだろう。

そして、今まで、なんで無理していたんだろう。

 

    

 

私は、いらぬものを、その都度「落としている」。

蓄えたはずの知識、思想、特に、その都度湧いてくる想念。

 

それらを、気づいたはたから落としていく作業を、いそいそとしている。

 

すると、今、必要なことだけが起こってくる。

 

日曜参観/ラボ/焼き鳥屋/生理痛

7:50am

 エビの残りでアボカドと一緒にマヨネーズ和え。米粉パン。ヨーグルト。

12:30

 日曜参観から戻る。時間割の各授業を、ちらりと観て帰る、ちらりと観て帰る…を繰り返して、最後は避難訓練の一環として保護者と下校。学校が近いと楽。

 それにしても、全く「発表」をしない長男だが、図工の時間は、じっくり時間を掛けて、言いたいことを作品にして丁寧に表現している。消極的というより、慎重なタイプと言ってあげよう。

13:00

 昨日の行商さんから購入のイサキを焼く。

 ボンは公文の宿題の前で呻いている。できないんじゃなくて、やる気にならなくて。「やめたらいいのに」と言うと「それはイヤ」などと返答する。じゃまくさいお子さんやなぁ。笑

16:30

 ボンの誕生日プレゼントを選びにヨドバシへ。レゴブロックにかじりついている長男を目で追いながら(この際、ラボ買うてあげる?)と、夫とアイコンタクトでコソコソと話し合って、任天堂ラボのコーナーに連れて行った。

 いったん諦めていた本命が手に入ると理解した長男、ニヤケが止まらない。ぴょんぴょん跳ねるのを抑えられない。ああ、私たちはただ、ボンのこの姿が見たいだけなのだね。本当は。

 スイッチとラボを購入。高額なので、両ばあちゃんからのお祝い金を合算させてもらった。

 

 

18:15

 三条の焼き鳥屋さんで娘と合流。予約が3ヶ月待ちの繁盛店で、夫が春に予約をしておいてくれた場所。ありえない安さと、美味しさ。店長さんの気配りの見事さ。スタッフの方々の機転が利いて、焼き鳥屋さんらしい気楽な返答。「流行らへん理由がないなぁ」と、帰り際に次回の予約を入れて帰った。

22:30

 帰りの道中に、生理痛が悪化してきたお嬢は、帰ってから「毎月毎月、もういやや」とぐずぐずと涙を流している。

 ラベンダーとゼラニウムのオイルを娘の腰に塗り、30分程度さすった。パパが「ワシ、慢性盲腸で七転八倒したことあるんやけど、そんな感じかな?」というと、娘は「これは、経験してへん男にはわからんわ!」となぜか怒り口調。

 少し小康状態になった娘に、「パパに当たらんといてよ」と言うと、「そうやった?」とけろっと答え、そして「…そもそも私は『何で女ばっかりが、こんなリスクを背負った肉体を持ってるんや?』と腹を立ててる」と、明快な回答。だからって、男の人に怒りをぶつけるのは違うだろうけど。とりあえずは神様に訴えるしかないねえ。

土曜日のお魚

0:10pm

 ボンが宿題せずに、朝からずっと工作に逃げている。ヒゲおやじの絵を立たせるようにしたものを「女神さま」名付けて大笑いしている。

 今頃、給食袋を出してきた。洗濯に

間に合わず。

5:00pm

 百貨店の資生堂でアイライナーを買ったあと、ボンとおもちゃ売り場をざっと見る。もうすぐ8つの誕生日なので下見。地下で抹茶ロール。 

 家に帰ると、夫がゴルフから戻ってきていた。前回90を切ったとのことだったが、今日は打って変わって114。笑

9:05pm

 土曜日は恒例の、行商さんから仕入れるお魚祭り。今晩のメインは、ヒラメのお刺身。ブリブリで美味しくて、刺身醤油にも、一味唐辛子ポン酢にも合う。鯛のあらの塩焼き。エビを3パックもいただいたので、夫がアヒージョにしてくれた。今回はサザエが立派で、こちらもアヒージョの中に。

ラビの手帳

 雨は止んだ様子。低気圧のせいか、朝からずっと軽い頭痛。

 

 長男を公文式に送った後、隣のカフェでコロッケをつまんでワインを一杯引っ掛けてからお迎えに行くのが、週末の密かな愉しみ。夫にはこのカフェの存在は内緒。特に意味はないのだけれど。笑

 

 気のいいオーナーおねえさんとの他愛ないおしゃべり。おねえさんは、イスラエルが大好きで、イスラエル話で盛り上がる。

 私は、イスラエルといえば、旧約聖書のあのおとぎ話的な寓話と、聖地が集まる場というところが、なんだか宇宙人のゲーム盤の設定に感じられて、妄想世界が広がる。

 

 三十年くらい前のことだけど、河原町の丸善で購入した、イスラエルのラビ(聖職者)用の手帳を物珍しさで使っていたことがある。七日に一日、休日というより安息日のような記述になっていたような気がする。キリスト出現前の暦。

 

 おねえさんは、戦争の地の救済への思いから海外青年協力隊として赴かれ、それがきっかけで、イスラエルの文化に惹かれるようになって、そこのものを取り入れたカフェをされるようになったそう。私のへっぽこ脳内世界と一緒にするのは、違和感というか、申し訳ないです。はい。

 

 興味ある国だけど、行ったことはない…というと、

 「もったいない。好きならぜひ行ってください」とおねえさん。

 

 本日は、新しいメニューのミルクジェラートを勧められるまま頼んだ。近所のイタリアンのシェフから仕入れているものらしい。私の場合。冷たいものは、お腹を壊すことが多いのだ。今日は、昼からコーヒーを立て続けに飲んでいるから、余計に怪しげだったが、欲に勝てず。…案の定。

 

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